ギャラリースタッフセレクション13 日比野 晋一 Shinichi Hibino
この展覧会は、各ギャラリースタッフが注目する若手作家を、毎回厳選し紹介していくシリーズ展です。
平成18年4月27日(木曜日)から5月30日(火曜日)まで
出品作品
プロフィール
- 1972年
愛知県に生まれる - 1994年
個展(J2ギャラリー、銀座) - 1994年
第8回多摩秀作美術展 佳作 - 1997年
個展(J2ギャラリー、銀座) - 1998年
多摩美術大学美術研究科大学院修了 - 1999年
第15回多摩総合美術展 佳作 - 2000年
第16回多摩総合美術展 佳作 - 2001年
TAMA・デ・アート2000 佳作 - 2002年
第18回多摩総合美術展 佳作 - 2004年
TAMA・デ・アート2000 大賞
解説
僕の家の裏に小川があった。もともとは小魚が群れなす清流であったが、いつしか汚れ、へんな匂いが漂う汚水に変わり果てていた。そこに大きなフナが浮かんでいた。死んでからだいぶ経ったのか、すでに色が抜け落ち、目玉は穴になっていた。そのフナが、モゾモゾと動いた。僕は恐る恐る、棒でつついた。すると、なかから大きなザリガニが顔を出した。臓物はすべて食い尽くされたのか、フナであったものは外側の皮だけを残し、中身はコイツに取って替わられていた。恐怖とも神秘ともつかない奇妙な感触が、僕の身体を包み込んだ。その夜、なぜか僕は熱にうなされた。
日比野晋一の『水生生物』をみた時、何10年もむかしのこんな記憶が蘇った。
何とも不思議な作品だ。幼い頃の記憶のように、魚の皮をまとったザリガニが大きなハサミをのぞかせている。魚の腹からとび出した臓物は、メカニックな雰囲気さえも漂わせている。生命感があるともないともいえない静寂な空間。一方、ばかに突き抜けた作品もある。青空のもと、色鮮やかな昆虫や魚、何かの部品などが浮かんでいる。そこには、何の脈絡もなければ、何の意図も見えない。ただ、ただ、きれいに正確に描かれている。しかし、どこかで見たことのある光景だ。記憶がうずく。少年の頃か?もっとむかしか?
画面に登場する昆虫・魚は実在するものだ。かなり精密に描かれている。なかには通好みの珍種もいる。この作家、相当の昆虫・魚マニアとみた。しかし、このモチーフに意味などない。おそらく、心を無にし、思い浮かんだものを次々と描いているだけだろう。むしろ、作家が固執しているのは描き方だ。これらの作品は手書きだ。エアブラシなど使っていない。もちろんコンピュータグラフィックでもない。作者は、あくまで筆で描くことに固執している。ここにヒントがある。
日比野は、いたってマイペースだ。「好きなときに好きなように描く」を自分の信条としている。それは画家としての理想的な生き方だ。手書きにこだわるのも、絵を描く過程を、絵筆の感触を楽しみたいからであろう。一筆一筆、自分の手で描いた作品でなければ、安心できないのである。何かを訴えたいわけではない。強く主張したいわけでもない。ただ単に、自分のために、自分の心が満たされるように、好きなものを好きなように描くために、筆を運ばせているだけなのだ。そこに欲はない。もし仮に、見る側に望むものがあるとしたら、それは記憶の共有であろう。
日比野はきっと、作品を通して第三者と記憶の共有をしたいのだ。画面に現れる様々な奇妙なモチーフ。個々には意味を持たなくとも、人々の記憶の片隅に、多くの脇役のひとつとして、ひっそりと閉じ込められているものたちなのだ。日比野は、一筆一筆丹念に描きながら、自分の記憶の確認作業をつづけている。だから、手書きにこだわるのだ。モチーフのひとつひとつは、この作家が特に興味を示した虫たちなのであろう。一筆描くごとに、その記憶が鮮明になる。
日比野の作品に出会った時、そのようなたわいもない、しかし、どこか心の奥に引っ掛っていた小さな記憶が、まるで釣り糸をたぐりよせるかのように、ズルズルと引きずり出されてしまった。思いがけなく幼い頃の奇妙な経験が蘇ってしまった僕は、すでに彼に感化されてしまったのであろうか。きっと日比野も、ザリガニにうなされたクチなのかも知れない。
相模原市民ギャラリー 学芸員 柳川雅史
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