在日米陸軍(ざいにちべいりくぐん)相模総合補給廠(さがみそうごうほきゅうしょう)の歴史(れきし)

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ページ番号1022541  最終更新日 令和3年4月21日

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相模総合補給廠の歴史を教えて︕

1.戦争(せんそう)前のおはなし

昭和のはじめごろ、日本は戦争に向け、軍(ぐん)の施設(しせつ)を建設(けんせつ)する計画(けいかく)をたてました。
そこで、日本の旧陸軍(きゅうりくぐん)は東京から比較的(ひかくてき)近く、平らな土地で安価(あんか)だった「相模原台地(さがみはらだいち)」に目をつけました。
そうしたことから昭和12年に陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう)が移転(いてん)されると、相模原一帯(さがみはらいったい)には、日本陸軍(にほんりくぐん)の関連施設(かんれんしせつ)が続々(ぞくぞく)と建設(けんせつ)されました。
相模総合補給廠も、もともとは「※相模兵器製造所(さがみへいきせいぞうじょ)」として建設されました。
※相模兵器製造所とは、戦争の兵器(へいき)をつくる場所のことです。

陸軍士官学校と相模陸軍造兵廠の写真

ここでのポイント!

相模総合補給廠はもともと、日本の旧陸軍が使用していた土地なんだ!

その後…
昭和14年から昭和20年まで第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)という大きな戦争がありました。

2.戦争後のおはなし

日本の旧陸軍が使用していた多くの施設は戦後(せんご)、在日米軍(ざいにちべいぐん)の基地(きち)として使用されることになりました。

ここでのポイント!

戦争がきっかけで、相模総合補給廠を在日米軍が使うことになったんだね。

この写真は昭和26年ごろの相模総合補給廠の西門です。当時、この相模総合補給廠では大勢(おおぜい)の日本人が働(はたら)いていて、一番多いときには1万人を超(こ)えました。ここでの仕事は主に、在日米軍の重車両機器修理(じゅうしゃりょうききしゅうり)でした。

1951年ころの相模総合補給廠の西門の写真

しかし、相模総合補給廠(さがみそうごうほきゅうしょう)などの市内の米軍基地(べいぐんきち)は計画的(けいかくてき)なまちづくりを進める上で大きな障害(しょうがい)となってきました。
そこで、相模総合補給廠をはじめ市内の米軍基地を日本に帰してもらおうと、日本政府(にほんせいふ)への要請(ようせい)や署名(しょめい)活動などの基地返還運動(きちへんかんうんどう)の取組みを始めました。
そしてついに、平成20年6月の日米合同委員会において、相模総合補給廠の一部が日本に返されることに決まりました。この土地のことを「一部返還地(いちぶへんかんち)」と呼(よ)んでいて、約(やく)17ヘクタールあります。
さらに、平成24年6月には、一部返還地の北側(きたがわ)にある約35ヘクタールについても、日本と在日米軍で一緒(いっしょ)に使うことに決まりました。この土地のことを「共同使用区域(きょうどうしようくいき)」と呼んでいます。

下の4枚の写真は基地の返還運動の取組みの様子だよ!

基地の返還運動の様子の写真

ここでのポイント!

相模総合補給廠のうち、約17ヘクタールが日本に返されたよ。(一部返還地)
相模総合補給廠のうち、約35ヘクタールが日本と在日米軍で一緒に使える土地になったよ。(共同使用区域)
相模総合補給廠はとても広く、約197ヘクタールが在日米軍の基地として残っているから、基地返還の取り組みは続くよ。

そして、日米合同委員会から6年後の平成26年9月に、日本政府(にほんせいふ)へ正式に一部返還地17ヘクタールが返され、現在(げんざい)は、財務省(ざいむしょう)が持っている国有地です。
今は相模原市の土地ではないよ。

相模原市にはほかにも、昔は在日米軍基地だった場所があるよ

在日米軍基地だった場所を示した地図

相模原各地の在日米軍基地だった場所の今と昔の比較写真

ここでのポイント

相模原市には相模総合補給廠のほかにもいくつもの米軍基地があったよ。
日本に返還(へんかん)されたあと、そこにいろいろな建物(たてもの)や公園などが造られているんだよ!

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