6.新田の開発と清兵衛(せいべえ)新田

ページ番号1012656  最終更新日 平成30年1月12日

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今から、約(やく)400年前(江戸(えど)時代)の相模原(さがみはら)地域(ちいき)の中央部は「相模野(さがみの)」と呼(よ)ばれる草や木が生えている広大な原野でした。相模野では、水を得(え)ることがむずかしいため、この場所に人びとは住むことをこばみつづけていました。

今から160年前くらい前、当時、畑は農家の人にとって、とても大切なものでした。
しかし、田畑は、川のそばにわずかにあるだけでした。

農民(のうみん)たちは、少しでも生活を豊(ゆた)かにしようと、あれていた相模野をなんとか作物のとれる土地にしようと、しげっていた草をかり、土地をたがやして少しずつ畑にしたり、薪(まき)や炭焼(や)きのための植林を行いました。
こうして、上矢部新田、大沼(おおぬま)新田、溝境新田、淵野辺(ふちのべ)新田、清兵衛(せいべえ)新田の5つの新田ができました。

中でも「清兵衛新田」は、とても大きな新田でした。原清兵衛(せいべえ)という人が中心となり13年間でおよそ150ヘクタール(1ヘクタール=たて・よこ100メートルの正方形と同じ広さ)の畑を作り上げました。
作った畑で、そば、あわ、ひえ、大麦、小麦などをさいばいしましたが、収穫(しゅうかく)は少なく、米はほとんど口にすることができませんでした。
苦労(くろう)して開いた畑も火山灰(かざんばい)がふりつもったやせた土地だったことや、水の便(べん)が悪かったことで肥料(ひりょう)代や生活費(せいかつひ)などのための借金(しゃっきん)に苦しみ、人びとの暮(く)らしは、あまり楽にはなりませんでした。

写真1
清兵衛新田の開墾記念碑(かいこんきねんひ)
写真2
清兵衛新田開墾農家(かいこんのうか)

清兵衛新田は、地名の由来になっているよ!

原清兵衛が中心となり、新しく農地を開いたところなので、「清兵衛新田」と名付(づ)けられました。現在、相模原市役所から南橋本にかけて「清新(せいしん)」という地区があります。これは、「兵衛田」が短くなり「清新」と呼(よ)ぶようになったんだよ!

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