1.大むかしの相模原

ページ番号1012651  最終更新日 令和5年2月6日

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旧石器時代(きゅうせっきじだい)

旧石器ハテナ館の展示スペースの写真

相模原(さがみはら)で人びとが生活を始めたのは「旧石器時代(きゅうせっきじだい)」とよばれるとても古いころです。この時代は、とても寒い気候(きこう)でした。その中で、人びとは食料(しょくりょう)となる動物などを求(もと)めて移動(いどう)する生活をしていたと言われています。生活していた様子を調べてみると、動物を狩(か)っていたあとや、食べ物を蒸(む)したり、焼(や)いたりした場所と思われるものが見つかりました。
中央区田名塩田(たなしおだ)にある田名向原遺跡(たなむかいはらいせき)では、約(やく)2万年前の人びとが住んでいたと思われる住居(じゅうきょ)あとが見つかりました。
イエの柱やたき火のあとと考えられる部分や石で作られたやりなどもたくさん見つかりました。

昔の人びとの生活を体験(たいけん)してみよう!

田名向原遺跡には、「旧石器(きゅうせっき)ハテナ館」という施設(しせつ)があります。この施設には、旧石器時代の人びとの生活の様子を展示(てんじ)した模型(もけい)などがあります。土器(どき)作り、石器(せっき)作りや埴輪(はにわ)作りといった体験もできます。みんなで昔の人びとの暮(く)らしを体験してみよう!

縄文時代(じょうもんじだい)

写真:土器
勝坂式土器(かっさかしきどき)

縄文時代(じょうもんじだい)(今から約1万5、6千年~2千数百年前)には、人びとは竪穴住居(たてあなじゅうきょ)とよばれる、穴(あな)を掘(ほ)って床(ゆか)をつくり柱を立てて茅(かや)や土で屋根をおおう住居を作り、グループで長い間生活していました。彼(かれ)らは、どんぐりなどの木の実やいも類(るい)、シカやイノシシなどの動物・魚を食べていました。 

相模原地域(さがみはらちいき)では、今から4~5千年前に人びとが生活していたあと(集落)がたくさん見つかりました。
南区磯部(いそべ)にある勝坂遺跡(かっさかいせき)は、この時代の大きな集落の一つです。この遺跡(いせき)からは、当時、住んでいた人びとが使った土器(どき)がたくさん見つかりました。土器は食料(しょくりょう)をにたり、保管(ほかん)したりするために使われていました。
この土器は、装飾(そうしょく)が豊(ゆた)かなもようや、とってに特徴(とくちょう)があり、「勝坂式土器(かっさかしきどき)」と呼ばれています。

勝坂遺跡公園(かつさかいせきこうえん)に行ってみよう!

勝坂遺跡公園には、竪穴住居を復元(ふくげん)したものがあります。屋根を土でおおったものと、笹(ささ)でおおったものがあります。どう違(ちが)うのか、体験(たいけん)してみよう!
勝坂遺跡公園(かつさかいせきこうえん)では、昔の土器(どき)を作ったり勝坂遺跡公園にいる虫たちを観察(かんさつ)するイベントもあります。

津久井地域(つくいちいき)には、寸沢嵐石器時代遺跡(すわらしせっきじだいいせき)や川尻石器時代遺跡(かわしりせっきじだいいせき)などの縄文時代の遺跡があります。
床(ゆか)に石をしいた住居(じゅうきょ)あとや、土器や石器などが見つかりました。

縄文時代の集落は4千年前ごろからしだいになくなっていきました。

弥生時代(やよいじだい)

弥生時代(やよいじだい)の始まりを表す大きな特徴(とくちょう)として、外国から伝(つた)えられてきた稲作(いなさく)があります。今まで学んできた縄文時代(じょうもんじだい)は、動物を狩(か)ったり食べ物を採(と)ってきたり、魚を捕(つか)まえるといったものでした。しかし、弥生時代が始まり稲作文化(いなさくぶんか)が始まると、水や食べ物などを巡って争いが起きたりといった事もありました。
弥生時代では、津久井地域の三ケ木遺跡(みかげいせき)などで弥生土器(やよいどき)が発見されています。
しかし、発見例(はっけんれい)が少なく、人びとの生活したあとや田んぼがあったあとなどは、今のところ相模原市内からは見つかっていません。

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