9.戦争(せんそう)と相模原

ページ番号1012659  最終更新日 令和5年2月6日

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相模陸軍造兵しょうの写真
相模陸軍造兵しょう 第4工場

日本が中国などに進出するため、軍隊(ぐんたい)を強化していくと、国の軍都(ぐんと)計画により、軍(ぐん)に関係(かんけい)する学校、病院、工場などの施設(しせつ)がつぎつぎと相模原に移(うつ)ってきました。

現在(げんざい)、横浜(よこはま)線の相模原駅と矢部駅の間にある「在日米軍(ざいにちべいぐん)相模総合(そうごう)補給(ほきゅう)しょう」は「相模陸軍(りくぐん)造兵(ぞうへい)しょう」のあと地です。
造兵しょうでは、戦車(せんしゃ)や砲弾(ほうだん)をつくったりしました。

相模原の各(かく)村からも、多くの若者(わかもの)たちが兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に向かいました。農家では、働(はたら)き手が減(へ)り大変(たいへん)に苦しみました。

相模原町の誕生(たんじょう)

相模原町役場の庁舎の写真
相模原町役場の庁舎(ちょうしゃ)

鉄道が通り、軍(ぐん)のしせつがたくさんつくられたことにより、道路や住宅(じゅうたく)などが整備(せいび)され、相模原は「軍都(ぐんと」として発展(はってん)をしていきました。
この時、まちをつくる計画を進めていく中で、町と村が合併(がっぺい)する気運(きうん)が高まり、上溝(かみみぞ)・座間(ざま)・相原・大野・大沢(おおさわ)・田名・麻溝(あさみぞ)・新磯(あらいそ)の2町6か村が合併し、人口4万8,482人の日本一大きな町「相模原町」が誕生(たんじょう)しました。

日本が戦争(せんそう)に負けると、軍都としての役割(やくわり)はなくなりましたが、軍(ぐん)の施設の多くは米軍(べいぐん)に取り上げられ、相模原は基地(きち)の町となりました。

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